格差の拡大?

COVID-19で格差が拡大するという説がある。その説を示す客観的な事実もいくつかある。少なくとも、この1年間で富裕層は金融資産を増やしたが、実体経済は低調が続き、貧困問題が再び顕在化している。

一方、COVID-19 の前も含め、世の中で格差が拡大してきたかというと、この数十年位のスパンでは YES かもしれないけど、百年とか千年のスパンで考えるとどうだろう。歴史におけるその時々のごく一部の支配者が強大な権力を誇っていた時期の方がよっぽど大きな格差があったのではないか(だからといって、今の格差が問題ではない、ということには当然ならないのだけど)。

・・・というようなことを考えながらでウェブで調べてみたところ、歴史研究の方が書かれたずばりそのものの本を発見した。レビュー内でも記されているように、日本は明治政府が進めた四民平等の原則により、近代はきわめてフラットな世界となった。
各時代において、格差がどう生じて定着していったのか、それらの格差は政権の移り変わりによってどの程度リセット(あるいは維持)されたのか、という点にすごく興味がある。読んでみよう。

 

www.bookbang.jp

 

(追記)

この興味は、「格差」を分布で表現する zipf 則が時間軸でどの程度安定しているのか、そしてzipf 則を形成する構造に変化はあるのか、といった点に集約されるように思う。理解には社会科学的な視点も必要になると思われる。こういう話は面白い。

 

この1年の変化(学会出張がなくなって気がついたこと)

ちょうど書こうと思っていたこと(「#この1年の変化 」)がはてなのお題キャンペーンになっていたので、乗っかってみる。

 

大学で勤務するCS系研究者の立場で、1年の変化についてふりかえってみると、目に見える大きな変化は「学会出張に行かなくなったこと」だと思う。同業者で時々話題になるのは、学会に行っておしゃべりする機会がなくなってしまったということ。もっとも自分の場合、ある一定の年齢になってからは学会のバンケットで積極的に人脈を広げたりすることもせず(そもそも知り合い同士でも夕食に3時間もかけるのは苦痛)、休憩時間では部屋に籠もって締切作業に勤しんでいたくらいなので、その点は実は大して変化していないように思う。そもそも単独で行動したり、テキストで会話する方が居心地が良いのである。

 

出張に行かなくなったことで大きいのは、物理的な移動がなくなったことで、これでかなり時間が捻出できたように思う。海外出張の場合、時差ボケになる心配もない。それまでは平日5日間が消費される出張を国内外あわせて年間6-7回はくりかえしていたけど、これは単純計算で6-7週間相当。1週間で10回の研究ミーティングをやるとして、60-70回のミーティングに相当するのだから、この差は大きい。そんなわけで、この1年間は学生との研究ミーティング回数が大幅に増えた。また、研究費支出として旅費の項目がなくなったので、その分をRA経費として熱心な学生に研究を頑張ってもらうことにした。出張にかかる事務作業もなくなったので(考えてみると、毎度結構面倒な処理が発生していた)、その時間も有効活用できる。これはなんか良いこと尽くめではないか!

 

最近は国際会議もオンラインで参加できるようになっているのだけど、欧米開催のことが多いので、時差の問題があった。日本だと真夜中に参加することになるので、一人時差ボケのような状態になってしまう。自分の場合は眠気に対抗することなく、深夜1時くらいまでか、早朝5時くらいからの参加のどちらかに絞り、本当の真夜中に起きて参加することはしなかった(後から動画も見れるし)。しかしここにきて、アジア時間で会議を再演してくれる(著者らは真夜中にもう1度発表)というありがたい会議が出てきているので、時代はそういう流れなのかもしれない。これがあれば、リアルな出張の必要性がなくなる。もっとも出張先で美味しいものが食べられなくなってしまうけど、純粋に会議を堪能するならその方が良いように思う。時間もお金も体力も節約できるのだから。

 

研究者として飯を食うようになって早くも20年になる。これまでずっと生活の一部であった「学会出張」がなくなることはまったく想像だにしていなかったし、それなしには研究が成り立たないように思っていたけど、実際は違っていた。下手に出張しない方が研究が捗るのである。実際、世界のトップを走る研究グループのPIなんかは、あまり会議でも見かけない(委員として働いていない限り)。まぁそういうことなんだと思う。出張の非効率さには薄々気がついてはいたのだけど、学会出張は半ば習慣のようになっているため、何の疑問もなく長らく参加し続けている状況にあった(毎年の研究予算にも必ず旅費を計上していたくらいなので)。コロナ禍で学会出張を強制的にやめざるを得ない状態となり、新たな価値観に気がつくことができた。この先、少しずつ元の生活に戻ると思うのだけど、出張しないことのメリットを体感してしまった今、学会出張に行く回数は元に戻らないと思う(ゼロではないにしても少ないはず)。もっとも、学生や若い研究者には積極的に学会出張を経験してもらいたいと思う。

 

国内でも海外でも色々な土地に行くこと自体はとても好きなので、学会出張しなくなった分の時間で働いて、その分休暇をとってどんどん個人旅行に行こうと思っている。学会出張だと遊べないし、とことん楽しむならその方が効率が良い。

懐古趣味の本質は自分を確かめる作業か

最近懐古趣味というほどでもないのだけど、大昔少年時代から青年時代にかけて嗜んだことを掘り返してみたくなって、過去に手放してしまった機器の中古品(ゲーム機とか楽器とか)を色々大人買いしている。いざ届いてみると(特に最先端技術とのギャップが激しい8ビットゲーム機は)かなり思い出補正があったなぁなんて思いつつ、触ってみるとやはり楽しくて時間があっという間に過ぎてしまう。特に昔長時間耳にしていた音を聞いていると、色々と脳幹が刺激される。そして、そのせいか昔の夢なんかを良く見るようになった。すっかり忘れていた人のことなんかも夢に出てくる。

これは脳神経内のどこかに残っている記憶を呼び戻したいという願望がなせるものなのだろうか。すっかり追憶の旅というか、昔に考えていたことなんかを振り返る時間となっている。その「自分の過去を確かめる」作業を通じて、今の自分の有り様を再確認しているような気さえする。コロナで人生の価値観が大きく変わってしまった現実を前に、自分自身の原点や拠り所を指差し確認することで、心の安寧を得ようとしているのかもしれない。まぁ横から見たらいい歳したオジサンがゲームコントローラを操作したり、ぎこちなく鍵盤を弾いているだけなんだけど。

それにしても昔はあんなに器用に操作できた諸々の機器を前に、手が思ったように動かないのがもどかしい(「昔はできた」は思い出補正かもしれないけど)。そういえば、親がファミコンをぎこちなく操作するのを見て、なんであんなにぎこちないのかと思ったことを思い出した。今、まさに自分がそうなってしまったんだなぁと!その事実を半ば認めつつも、そんな不甲斐ない状態に抗いたい気持ちもあって、必死に練習をしてみたりして。しばらくやっていると少しはうまくなる気がするけど、子供の時ほどの爆発的な上達速度は見込めなそう。そしていずれ、その当時も感じていた壁にぶつかるのだと思う。壁を再確認することにもなりそうな気がするけど、昔とは違う方法で壁を突破できたりしたら面白いなとも思う。

論文8本

昨日で手元の国内研究会向け論文8本をリリース(投稿)することができた。なかなか大変だったけど、これだけの数を出しつつ、かつそれぞれが高いクオリティに仕上がったのは初めてのこと。コロナ禍で、対面での会話や学会出張もない悪条件の中、学生がコツコツ頑張ったおかげかと思う。それぞれの学生が大いに成長したと感じる。いずれも今後の拡張・発展が大いに期待できる良い研究の形ができてきたので、副産物として国際会議、ジャーナルに投稿することもできるだろう。

これに加えて卒論、修論合計10本くらいあったので、この2-3週間はまぁまぁ大変ではあったけど、すべて終わると次に進みたくなる。まだ今シーズンは色々と残務があるのだけど、それが片付けば楽しい研究期間になるだろう。

論文書き=わからないことをわかるようになること

まとめて論文を書く仕事をしていると,これは自分がわかっていないことを明らかにする作業だと感じる.今やっているのは学生が書いた論文を読んで,わからないところを全部わかるようにすること.そのために学生に質問をしたり,関連する文献を読んだり,あまり明るくない周辺技術の解説動画をみたりする.そうすると段々わかってくる.

残念ながら自分はあまり頭が良くないので*1自分が完全にわかることであれば,世の中のたいていの人はわかってくれるはず.そんなわけで,「自分がわかる」というのは査読者が読んでもわかる良い試金石になっているので,とにかくまずは自分がわかるまで噛み砕く作業を続ける.

ところで最近はこれまでに経験がない新たな領域に関わるテーマに取り組んでいることもあり,この作業がなかなかに骨が折れる.結局勉強しながら論文書いているようなことになるので時間もかかる.よくわかっている分野であればとことん表現を磨く作業までいけるのだけど,そもそもよくわからない技術が入っている場合,書く前にまずそこを完全に理解できるまで内容を検討するしかない(専門家の共著者がいないときはなおさら).

というような状況もあり,なかなか苦戦はしているのだけど,この作業はとても充実する.これがあと数日続く予定.いやぁまだまだわからないこと山積み!(笑)

*1:本当に心底そう思う.そしてそのことを自覚できる程度の客観的な視点くらいは持ち合わせているつもり.すぐにものを忘れるし,理解速度も遅い.

フィジカル面での衰え

を感じたという話(連日現実逃避中).

加齢的なものは当然前からあるし,今更書くまでもないのだけど,緊急事態宣言に合わせて年末からずっとテレワークを続けていて,電車にも乗らずに家の中と近所をぐるぐるする生活を続けていたら筋力がかなり弱ってしまった模様.今日久々にオフィスに行ったら,いきなり家から駅に向かう道で息を切らしてしまい(いつもの調子で早歩きしたらだけど),階段を登れば腿の裏あたりがあっという間に強張ってしまい,極力階段を使うマイ掟を破って,エレベータやエスカレーターを使ってしまう体たらく.極めつけは電車の車内で iPad を片手で持って Kindle 本を読んでた時のこと.隣の人に当たらないように縮こまっていたこともあるのだけど,段々腕がプルプルしてきてしまい,最後は両手持ちになってしまった.iPad Pro ならまだしも,重量わずか 300 g の iPad mini で!

いやぁこれはまずいと思いましたね.幸いコロナ感染者数も減りつつあるので,最低でも週1は通勤せねば(週1ペースの頃と比べても明らかに衰えた).そして今日は良く寝れそうな予感.

(ポエム)ふと思ったこと

大学に着任した1年目は研究資金が不足していて,カツカツな状態だった.機材はヤフオクで中古のものを買ったり,他の教員のお下がりを頂いたり,航空券も格安のを探してきて,なんとかやりくりしていた.そんなときに学生がコピー機を盛大に無駄遣いしている(厳密に言えば私用で使っていた)のを見つけて,思わず大人気なく叱ってしまった(自分はとにかく無駄が出ないよう,わざわざ白黒にしたり分割・両面を駆使してケチ臭く使っていたということもあるのだけど).今思い返してみればなんと器量の小さいことよ・・・と反省.なぜ今この瞬間にあのときのことを思い出したかはよくわからないのだけど,研究費にはちょっと思うところがある.研究資金はモノや旅費だけではなく,人に対して使うべきだと.そのためには主宰者はある程度の資金を獲得してこなければならない.そして,些末なことに腹を立てているようでは主宰者としては務まらない.

 

例年卒論シーズンは鉄火場のような状況の作業が続くのだけど,過去には怠けているように見える学生にはつい厳しい声をかけたこともある.今も鉄火場な状況はそれほど変わらないのだけど(共同研究+学会発表を兼ねることでパイプラインがうまくいっているようには思う),学生が多少のんびりしているように見えても叱ることはしない.その代わり背後で何がおきているかをポジティブに想像してみることにしている.そして実際に話をしてみると,その想像は正しいことが多いように思う.だから基本的には忍耐強く待つ.(ただし例外的に厳しい声をかけざるを得ない事もあるが,これも本人のことを考えてのギリギリの選択としている)

 

着任して,早くも8年ほどになる.これまで,ささやかではあるけど研究成果とみなせるようなことも多少積み上がってきた.そんな背景のもと,最近は研究室,あるいは研究グループをもう少し大きくしてみたいという思いが頭をもたげてきた.その連想で,上に書いたようなことが頭に浮かんでくるのだろう.組織を大きくするためには,自分自身がそれに見合う器にならなけらばならない.コピー機の無駄遣いをネチネチと叱るような狭量さでは駄目だ.組織を大きくして,大きな研究成果を出したい.組織を大きくすること自体を目的には決してしたくない.これがコロナ禍時代のチャレンジかな.・・・などと久々に素面でポエムを書いてみた(これは鉄火場からの現実逃避か).