懐古趣味の本質は自分を確かめる作業か

最近懐古趣味というほどでもないのだけど、大昔少年時代から青年時代にかけて嗜んだことを掘り返してみたくなって、過去に手放してしまった機器の中古品(ゲーム機とか楽器とか)を色々大人買いしている。いざ届いてみると(特に最先端技術とのギャップが激しい8ビットゲーム機は)かなり思い出補正があったなぁなんて思いつつ、触ってみるとやはり楽しくて時間があっという間に過ぎてしまう。特に昔長時間耳にしていた音を聞いていると、色々と脳幹が刺激される。そして、そのせいか昔の夢なんかを良く見るようになった。すっかり忘れていた人のことなんかも夢に出てくる。

これは脳神経内のどこかに残っている記憶を呼び戻したいという願望がなせるものなのだろうか。すっかり追憶の旅というか、昔に考えていたことなんかを振り返る時間となっている。その「自分の過去を確かめる」作業を通じて、今の自分の有り様を再確認しているような気さえする。コロナで人生の価値観が大きく変わってしまった現実を前に、自分自身の原点や拠り所を指差し確認することで、心の安寧を得ようとしているのかもしれない。まぁ横から見たらいい歳したオジサンがゲームコントローラを操作したり、ぎこちなく鍵盤を弾いているだけなんだけど。

それにしても昔はあんなに器用に操作できた諸々の機器を前に、手が思ったように動かないのがもどかしい(「昔はできた」は思い出補正かもしれないけど)。そういえば、親がファミコンをぎこちなく操作するのを見て、なんであんなにぎこちないのかと思ったことを思い出した。今、まさに自分がそうなってしまったんだなぁと!その事実を半ば認めつつも、そんな不甲斐ない状態に抗いたい気持ちもあって、必死に練習をしてみたりして。しばらくやっていると少しはうまくなる気がするけど、子供の時ほどの爆発的な上達速度は見込めなそう。そしていずれ、その当時も感じていた壁にぶつかるのだと思う。壁を再確認することにもなりそうな気がするけど、昔とは違う方法で壁を突破できたりしたら面白いなとも思う。